結局のところ「大人の問題」なんだよね

 

 

先日、3年ぶりに訪れた 福島県浜通り

 

浪江町からいわき市まで海沿いを走り

 

先ずは最初の目的地

 

 

 

 

11年前の東日本大震災で津波被害をうけ

 

今は震災の爪痕を伝承する「震災遺構」として整備された

 

浪江町立請戸小学校

 

 

 

 

「あの日」二階の高さまで津波は到達した。

 

「あの日」は

 

 

 

間近にせまった卒業式の準備・・

 

「あの日」震災被害にあった学校のほとんどが

 

こういうタイミングだった。

 

そこに津波・・そして請戸は 福島第一原子力発電所の

 

排気塔が望めるくらいの近さの場所

 

つまり放射能事故の被害にもあった場所

 

だから・・

 

 

 

「あの日」のまま

 

 

卒業式の準備中に・・

 

 

 

 

 

遠浅の海で 大きな津波は来ないと言われていた

 

請戸の海

 

でも、発令された「大津波警報」に

 

先生方は

 

 

 

 

先入観を捨て 大きな揺れ 警報

 

体感と情報を受けとめ先生たちは直ちに

 

避難行動を開始しました

 

 

避難時 山に上る時かな

 

けもの道的なのを子どもが知っていて

 

「こっちが近道だよ」と

 

子どもの意見も先生は取り入れ

 

 

学校にいた全員は助かりました。

 

 

児童を迎えに来るであろう父兄のため

 

教頭先生だけは学校に残り

 

 

 

 

 

 

津波は学校を破壊しました・・

 

 

 

 

山の上に居続けることも出来ず

 

 

 

 

でも 街は海に飲み込まれ戻ることは出来ない・・

 

下山し・・

 

 

 

 

請戸小では 誰ひとり命をなくすことはありませんでした。

 

 

震災時の小学校と言えば 僕の活動の拠点

 

宮城県石巻市

 

大川小学校があります

 

 

 

大川小では 当然同じように地震が起こり

 

校庭に避難集合した 

 

でもそこから動かなかった・・

 

 

 

「空白の51分」

と言うものがありますがあります。

大川小の悲劇のすべてがこの

「空白の51分」に詰まっています



ですから 一番大切な時系列を


 

14:46
 
震度6強大地震発生

① 机の下などで頭部を守る指示。その後校庭へ避難。

② 校庭に出る際,
 
 A先生は「山に逃げるからな」
 
 児童に声をかけた

 
  中庭を向いて整列,

 
  

   指揮台の上にラジオがあった。 (すぐ置かれたかは不明)
  体育館脇の山は傾斜が緩く,低学年でも登れる
  すぐに山へ向って走り出した子もいたが,まず校庭に整列し,点呼。
  点呼終了までは5~6分。A先生らが校舎内の検索を行い,全員が確認できた

14:52 (地震から6分)

 防災無線のサイレンが鳴り,6mの津波警報が伝えられた。
 高台への避難と海岸,河川へ近づかないよう繰り返し呼びかけ。
 ※校庭に出て間もなくサイレンが鳴り,6mの津波のアナウンス
   を聞いたと証言(6年女子)の証言と一致。
 A先生のFAX(A先生は生き残り顛末を報告した そのFAX)でも
 「サイレンが鳴り,津波が来ると言っていた」とある。
 少なくともこの時点で6mの津波が来るという情報はあった。
 サイレンはこの時しか鳴っていない

③ 長面方面へ向かおうとしていたスクールバスは,
  玄関前でいつでも発車できるように待機し,
  学校の指示を待っていた。
  バス会社から避難無線も入するようっていた
  運転手が避難を進言するが,学校からの指示は「待機」。
  5分あれば入釜谷方面への避難も可能。
  また,校長先生は電話で連絡をとった可能性がある。

④ A先生は山への避難を提案するが
 「何かあったら責任とれるのか」と言われ,強く言えなくなった。
 山への避難を支持する声はなかった。
 山はたしかに余震の度に揺れていて危険に見えた。
 ただし,木は一本も倒れていない。
 マニュアルには
 「津波の時は近隣の空地・公園」
 という記載。
 しかし近隣には空き地も公園もない

 教員間では,汚れたり,転んで怪我をすることで,
 責められるかもしれないという雰囲気が支配していた。
 マニュアルも不備な上,誰も津波の避難場所を把握していなかった。

⑤ 教頭先生も山への避難を考えたが,
 強く言えず。誰かが強く避難を訴えるのを待っていたが,
 誰も訴えなかった。A先生も強くは進言しなかった。

⑥ 迎えに来た保護者は十数軒,
  そのうち,早退や習い事のため,あらかじめ来ていた家もあり,
  引き渡しに手間取っていたとは言えない。証言からも明らかである。
  保護者証言

⑦ 地区の人は交流会館に避難しており,
  校庭は教員と児童,保護者以外
  地区の方はあまりいなかった。
  市役所の指導で,体育館に避難できるかどうか
  様子を確認した程度。
  地区民の対応に追われたということはない。

15:00(地震から14分)
 
⑧ 15時前後に迎えに来た保護者は,
  車内でラジオを聴き「6~7mの津波が来るから,山へ逃げて」と
  進言するが,対応したB先生は
  「お母さん落ち着いて,ここは大丈夫ですから」と
  相手にしなかった。

15:14(地震から28分)
 
⑨ 「10mの津波が来る」というラジオからの情報が,
  先生方に入り,輪になって会話をしている。
  子どもも状況を察知し,
  「ここにいたら死ぬ」
  「山に逃げよう」と訴えた。

  
  先生は答えず。

  
  一方で「絶対山だ」と泣きながら訴えていた先生もいる
 
   上記、保護者,児童証言 

   危機感が共有されていなかった。

⑩ 校庭ではたき火の準備が始まった。
  一斗缶のような缶が二つ用意された。
  早い段階で「避難しない」という決定になったことが分かる。

(※学校としてどう動くかの決定は何もなかったという方が合ってい
るかもしれない。大津波警報をうけての組織的な動きはほとんどない。)

15:25(地震から39分)
 
⑪ ラジオ,保護者,広報車からの情報により,
  津波襲来が現実味を帯びていた
。それでも,

  まだ「来るはずがない」という根拠のない
  安心感が支配していた。
  C先生が,迎えに来る保護者の対応のために校庭に
  残ろうとしていたことからも,
  「来るはずがない」と考えていたことが分かる。
  A先生をはじめ危機感を持っていた先生は複数いる

 (もしかすると全員?)

  市の広報車が
  15時25分

 「松原を越えて津波,高台へ避難」     を呼びかけ通過。
  とりあえず移動しようと言うことになったが,
  

⑫ A先生は2階に避難できるかどうか考え,
  校舎内にいた。教頭先生と共に決断を下す
  本部としての役割を果たすべき教務主任のA先生が,
  何度も校舎と校庭を行ったり来たりし
  数回の短いやりとりしかしなかった(←手紙により証言)というのは,
  不自然である。
  子どもの命を守る組織としての話し合いが
  きちんと成り立たなかったことがうかがえる。

15:36(地震から50分)

 校庭から移動を

 開始したのは
 大津波がいよいよ迫って,
 川からはすでに

 水があふれていた時である

(児童,地区の方証言)


  側溝からも水が吹き出ていた
  一応上級生が先頭となっているが,
  整列する余裕などなく,列は乱れており,
  学年は入り交じっていた。
  子ども達を向かわせた民家の裏は
  私道で狭い上,行き止まりになっている
  地区住民は列の中に入っていない。

⑭ 「三角地帯へ移動」と言ったのは教頭先生で 
  (三角地帯とは校庭から見れば高台)
 
↑ この橋のたもとが三角地帯(写真は校庭より望む)

                                     
  児童は自転車小屋の脇から出て,
  交流会館前までは歩いていた。

 

  県道を見に行った教頭先生は
  川からあふれる水を見て
  「もう津波が来ているから,急いで」と
  戻ってきた。
  児童はあわてて裏道の方に走り,
  書道教室の前やその一軒手前の家の脇を通り,
  県道に出ようとしたら川から波の壁が来た。
  先頭にいた児童があわてて引き返し,
  山に向かった。
  児童たちが追い込まれたのは,
  最も狭く,山の斜面も急な
  場所である。
  校庭から移動した距離は
  先頭の子で約180m足らず。
  移動時間約1分。

⑮ 15時35分に車で家を出た釜谷の人が
  最上屋(商店)の前で一時停車したとき(15時36分),
  児童はまだ県道に出ていない。

  間一髪で学校の脇の山に逃げた人の話では,
  山に駆け込むとき児童の列を見て,
  まだ校庭にも何人かいたとのこと。パニック状態だった。

⑯ A先生が校舎から出たとき,
  児童の列はすでに三角地帯へ移動を始めていた。
  その先に堤防を越えた大波が見え,
  A先生は とっさに山へ登った。
  

15:37 大川小に津波到達。。。

 

 

 

 

これが大川小の悲劇の「始まり」

 

ここからご遺族と教育委員会との

 

説明会からの齟齬や隠蔽、誤魔化し・・

 

悲劇の上塗りが始まります・・

 

その詳細はレポートにあるので ご興味ある方は

 

お読みください。

 

 

 

今回・・

 

請戸小を訪問して強く思ったのは

 

「大人の問題」

 

なんだな・・ってこと

 

 

 

悲しいかな対照的すぎる

 

請戸小と大川小

 

 

その対照的・・生存と死を分けたのは

 

「大人の判断」

 

 

 

請戸小から大平山までは約2km

 

その間には 避難時道路を埋め尽くす逃げる車の列・・

 

わたるに渡れない状況下 先生はなんとか車を止めて

 

子どもたちを渡らせて 大平山へ

 

ついてら登り口が分からない

 

でも 児童が「けもの道」を知っていた

 

そこを上る時 車いすの児童は先生がおんぶして

 

登った。

 

 

 

そして全員助かった。

 

 

翻って大川小

 

 

学校の裏山へは僕が検証で

 

実際に校庭の児童が並んでいたところから

 

歩いて 子どもたちが「逃げよう、山に逃げよう」

 

といった山に歩いた動画が・・

 

 

 

 

 

 

歩いて3分・・・

 

当然 僕が歩いたところにも地震発生時は

 

家があり こんな突っ切って歩けるはずはないけど

 

それでも倍かかっても6分あれば全員助かった

 

登るのも簡単な山・・

 

 

この差を生んだのは

 

「大人」なんだよね。

 

 

先生・父兄ってくくりでない

 

もっと大きな 僕も含めた「大人」

 

 

犠牲になるのは力のない 勝手に動けない

 

「子ども」

 

 

ウクライナもアフガニスタンも

 

戦争だって子どもが起こすわけじゃないのに

 

いつも被害を受け 涙して

 

未来が閉ざされ 命を落とすのは

 

「子ども」

 

 

震災から11年

 

年数だけ数えてどうすんだ?

 

11年だからなんなんだ?

 

 

11年で何か変わった?

 

制度じゃない 施設じゃない

 

「大人の向き合い方」だよ

 

 

制度も施設もカタチあるものが戻る

 

それは一見「復興」に見える

 

それも大切な要素だけど

 

取り戻せないカタチなきもの 

 

 

確かに10年は形を戻す局面だったかもしれない

 

でもここからの未来は

 

カタチなきのものを それにどう向き合い

 

この悲劇と奇跡 同じ震災で生まれたこの両極から

 

何を学び どう向き合い

 

未来を拓くものに昇華していくか・・・

 

 

 

「大人の問題」

 

 

なんだよね

 

 

 

 

 

 

 

 

ってなわけで    

 

本日も最後までお読みいただきありがとうございました。      

 

今日も 良い一日をお互いに!!

 

 

ではでは!!

 

 

  

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