相模原やまゆり園事件裁判~僕らの本質 社会の本質

 

 

このブログは1月8日

 

早朝に書いている。

 

 

このブログはもはや「理美容師ブログ」ではなく

 

僕の想いをただ書き殴る内容です

 

 

このブログ。。

 

障がい者施設「津久井やまゆり園事件」について

 

です。

 

 

 

被告・植松容疑者が今日の裁判で何を語るか?

 

凄く注目されてるけど

 

今報道で聞こえてくるのは

 

今までの言動をまとめた内容ばかりで

 

彼が今何を思い何を語るかは

 

今日の夜 仕事終わってからでしか

 

僕は知ることは出来ない。

 

 

 

 

 

植松容疑者は

 

「障がい者は不幸しか生まない

 意思の疎通が図れない者は排除すべき

 だから社会にいるべきではない」

 

そう一貫して言い続けてる

 

それに対し「社会」は

 

酷いとか 常軌を逸してるとか

 

赦されない 命を選別する権利はない

 

等と言っている。

 

 

 

でも思う・・

 

果たして「社会」は本当にそうなんだろうか?

 

妊娠時の羊水検査や

 

遺伝子を調べての障害の有無の可能性による

 

中絶。

 

これは「選別」ではないのか?

 

まだ生まれてなく 

 

障がいの「可能性」という

 

グレーな状態での「選別」を

 

法律も「社会」も一定範囲で容認していないか?

 

 

何故その可能性で「中絶」する?

 

そこに それを容認してる「社会の通念」は

 

 

 

「障がいを持って生まれた子どもは不幸である」

 

「障がいを持つ子どもを育てるのは大変である」

 

「障がいを持つ人へ『社会』は未成熟である」

 

 

 

そういう「観念・通念」が

 

底辺にあるからじゃないのか?

 

これらは植松と同じ思考じゃないのか?

 

 

*中絶した方を批難しているわけではないです

  当事者の方々は各々苦悩の末の選択だと思います

 ただそこに関わらず過ごしてる方々の関心の在り様を 

 問うているのです。

 

 

そう言う論陣を張ると

 

「障がいを持っていても 前向きに生きてる人も

 笑顔を与えてくれる障がい者も 大切な事を

 教えてくれる障がい者も沢山います!」

 

ってサイドが生まれる。

 

 

僕はこの考えも「選別」に感じる

 

 

 

 

前向きでない障がい者もいる

 

クソみたいな性格の奴だっている

 

笑顔なんて振りまかないし

 

なんも教えてくれない人もいる

 

それでイイじゃん。

 

 

なんなら「そういう」障がい者でなかったら

 

そういう人たちは何ていうのだろう?

 

 

 

 

人ってそう言うものじゃない?

 

障がいの有無でなく人ってさ

 

イイ奴もいればヤな奴もいる

 

それなのに なんか勝手に被せてるのって

 

「社会」に多くない?

 

 

 

僕はよく東北の仮設住宅でもNHKのインタビューでも

 

こう言ったものだ

 

「被災者=可哀想=けなげに肩を組んでみんなで

 絆結んで耐え忍んでる・・んなワケないじゃん

 イイ人はイイ人 クズはクズのまま

 震災受けてイイ人がクズに クズがイイ人に

 そういう事もあったでしょう

 ここにいる人たちは 「普通の人」ですよ

 訳わかんない感情押し付けてはめ込んでるのは 

 僕らなんですよ」・・・放送されない訳だ(笑)

 

 

 

 

人は「選別」を実はしてるんだ

 

植松のように

 

 

 

 

話が飛ぶけど

 

イラクの英雄の軍司令官を

 

アメリカが爆撃で殺害した。

 

今 世界は緊張状態だ。

 

 

何故 アメリカはトランプ大統領は

 

イラクの司令官を殺害した?

 

 

それはアメリカ的価値観での

 

「意志の疎通がはかれない」

 

 

「俺のいう事がわかんね~奴」

 

だからだよね。

 

相手は何かを言ってるんだよ

 

ただそれを「受け取れない・受け入れられない」だけ

 

疎通が図れないって事と

 

図ろうとしない事がゴッチャになってる

 

 

むしろ図れるとヤヤコシイ

 

図れない方が好都合的な部分も

 

見え隠れしてる。。

 

 

 

 

隠れと言えば

 

トランプ大統領には「隠れ支持者」という

 

存在が数多くいるとも言う

 

それは何かといえば

 

友愛や正義という「アメリカ的看板」

 

それを剥がした時本当のアメリカ人の

 

本質は

 

「America as №1」

 

「世界の超大国アメリカ」

 

「アメリカさえ上手くいってりゃぶっちゃけイイ」

 

。。トランプの存在は

 

「剥き出しの本質的・普遍的アメリカ」そのもので

 

表向きの価値観では否定せざるを得ないけど

 

本心では逆らえない「そのままのアメリカ」が

 

トランプだから「隠れて」支持せざるを得ない。。

 

 

 

 

 

 

植松は言う

 

「意志の疎通が図れない障がい者は

 死ぬべき」

 

 

 

この植松の言ってることと

 

僕らの社会の底辺に流れてるモノ

 

トランプ大統領の言ってる事、した事

 

根底は同じな気がする。

 

 

 

 

社会は人は「隠して成り立ってる」部分が大きい

 

 

 

 

意思の疎通を「価値観=社会通念の違い」で

 

かみ合わないだけで 

 

お互い喋れて口論さえ出来るはずなのに

 

危害を加えるかも「可能性」が

 

あるかもしれないから「殺す」

 

アメリカ

 

 

障がいがある「可能性」が

 

あるかもしれないから「中絶=排除」

 

僕らの「社会」

 

 

その生まれた者がいると「不幸」になるから

 

「社会にいるべきではない」と殺害した

 

植松

 

 

 

実は

 

植松という男の心の中にあるのは

 

「闇」ではなく

 

僕らが誰もが隠し持ってしまっている

 

「普遍的感情」なのかもしれない・・・

 

 

 

 

 

 

そう気づいた時この裁判は

 

物凄く重く 社会に計り知れない

 

影響をおよぼすモノになるはず

 

 

「人の心とはなんだ?」

 

のように「真理」に向き合う

 

向き合わざるを得ないほどインパクトを持つ

 

「原論」に。

 

 

 

 

人とはヒトになる時

 

倫理観やモラルなどで

 

本質を覆い隠してきた鎧を剥ぎ取った時

 

誰もが「植松」の存在を自己に観てしまうのではないか?

 

それを観てなお

 

それに打ち勝ち

 

ヒトが人になりえるのか?

 

 

 

 

そして人が人でい続ける時

 

い続けたいなら

 

「植松」とう男を常に意識していなければ

 

人はすぐにヒトになってしまうのではないか?

 

 

 

 

裁判が感情論や頭のオカシイ奴の

 

大麻イジってた奴の引き起こした

 

事件だってワイドショー的

 

興味本位な側面でおそらく進むだろうけど

 

そうさせてはいけない。

 

 

 

 

 

この事件は僕らに突きつける

 

 

僕らの隠してる本質

 

僕ら社会を覆い隠してる鎧

 

 

僕らは植松に何を見るのだろう・・

 

 

 

 

だけど・・

 

信じたいんだ

 

 

 

昨日の僕のブログ・・

 

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少年マーニは 自転車のかごに月を乗せて
いつも東の空から西の空へと走っていきます

太陽を乗せた少女ソルがやってくると
マーニは少しおやすみします

ある日 マーニが歌いながら自転車を走らせていると
やせ細った月が言うのです。
「ねえマーニ、太陽をとって。
一緒にお空にいると とってもまぶしくって。」

「だめだよ、太陽をとったらこまっちゃうよ。」
「誰が?」
「僕だよ。」
「どうして?」

マーニはきっぱり言いました。
「だって太陽をとったら君がいなくなっちゃうから」

そしてこう続けました。
「そしたら夜に道を歩く人が迷っちゃうじゃないか。」


「大切なのは
君が、照らされていて
君が、照らしている
ということなんだよ。」

そしてそれからずっと
いまでも月とマーニは自転車に乗って 毎日夜空を渡っています。


月とマーニーより。


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人は照らしあえるんだって